コミティア98サークル参加しました

2011/10/30のコミティア98、無事終了しました。スペースにいらしてくださったみなさまありがとうございました。

今回は新刊もなく、バイオリズム的にもまったく底の状態での参加でしたが、大阪時代からの読者の方や、札幌(!)の方まで来てくださって、たいへんありがたかったです。それと当日になって知ったんですが、ティアマガのハガキアンケートでコメントいただいていたようで、もっとちゃんと準備していけばよかったとちょっと反省。次回はきちんと新刊とか準備できるようにします……。

次のイベントですが、たぶん来年2月の東京ティアはパスして、5月ティア参加になるんじゃないかと思います。だいぶあいだが開きますが、そのぶんちゃんと新しいマンガ描いて参加できるようにしたいと思ってます。詳細決まり次第追って告知します。

2011/10/31 00:00:00

コミティア98(2011/10/30)参加します

今週末10月30日に東京ビッグサイトで開催されるコミティア98にサークル参加します。配置スペースはZ14aです。頒布物は既刊『コミュニケーション・ノート』と、あとたぶんペーパーがあります。

けっきょく新刊はナシで、たぶんヒマしてますので参加される方はよろしければお立ち寄りください。

2011/10/29 12:11:00

新潟コミティア36委託参加します

直前の告知になりましたが、あす2011/10/02に朱鷺メッセ3Fで開催される新潟コミティア36に委託参加します(委託No.18)。委託物は先月のコミティア97での新刊『コミュニケーション・ノート』です。当日は見本誌も置いてあるはずなので、参加される方はよろしければぜひどうぞ。

#そろそろイベント参加情報ページとか別個に作ったほうがいいような気がしてきた……。

2011/10/01 13:45:47

聖千秋『イキにやろうぜイキによ』雑感

1年半くらい積読してた聖千秋『イキにやろうぜイキによ』を通読。ボクシング少年の俊平ちゃんを好きになってしまった、学園の象徴にしてアイドルの苫子さんの一途な恋愛模様を描いた少女マンガで、話が進むにつれて俊平ちゃんがどんどんボクシング少年として成長していく一方、逆に苫子さんの心情からは遠ざかっていくというのが見所だと思うのだけれど、その矛盾に物語でどう決着をつけるのかと思ったら、遠く山口県の名門ジムから誘いを受けてプロボクサーの試験に合格するところまで行った俊平ちゃんが、けっきょくプロの道を諦めて家業の魚屋を継いで地元で苫子と結婚するという終わり方だった。

これ、「男の子が自分の夢を追って女の子からいったん遠ざかってしまうものの、けっきょく夢を諦めて女の子の待つ地元に引き戻される」という物語構造が、紡木たく『瞬きもせず』とほとんど同一だと思ったんだけれど、まったく同じ時期(1980年代末)に同じ雑誌(『別冊マーガレット』)で連載していたにせよ、キャラクター設定も舞台も道具立てもぜんぜん違う少女マンガが同一の物語構造を持つというのは、ちょっと考えてしまうな。ましてや最初「女の子の片思いのまま終わろうと思ってた」のが途中で「方向転換した」(文庫版3巻「あとがきトーク①」)となれば、よけいにその物語構造の規定力の強さや同時代の文脈みたいなことを考えてしまう。同時期の大塚英志は『瞬きもせず』について、通過儀礼の結末として「凡庸さの中への着地」を描いた例外的な作品と評していたけれど、しかしその後の90年代と00年代を経た現在の視点から見れば、それはむしろ「都会」や「外部」へのあこがれがなくなり、地元の同質的なコミュニティに安住する(ひきこもる)ようになっていく「地元志向」の萌芽的表現だったのではないかとも思えてくる。それは畢竟、他者なしでの全面的な自己肯定を求めるという、少女マンガがある一面で持つ限界にも関わってくることだと思うけれど、このあたりのことに関してはもうちょっと思考を継続していきたい。

2011/09/25 22:30:11

コミティア98(2011/10/30)直接参加申込しました

けっこう日程も詰まってるし参加どうしようかなあと迷っていたコミティア98ですが、けっきょく直接参加申込しました。時期的に新刊が出せるかどうかはすごく微妙なラインですが……。後日参加確定したらまた詳細告知します。

ところで、今回サークルカットのキャッチコピーから「女の子同士」とか「女の子2人」とかの文言を外しました。「百合」ということばはもう使わなくなって久しいのですが、いままではその代替として「女の子同士」とか「女の子2人」とかを使っていて、今回ことばの上ではそこからさらに遠ざかる格好になります。それはけっきょく、いまの西野のマンガがいわゆる「百合」ジャンルからの過渡期・移行期にあることの端的な反映だと自分では思っているのですが、しかしその過渡先・移行先がいまだハッキリとつかめていないというのも事実で、それでこんなふうな中途半端なコピーになってしまったということでもあります。

2011/09/03 21:24:07

新潟コミティア36(2011/10/02)委託参加申込しました

2011/10/02の新潟コミティア36に委託参加申込をしました。書類不備とかがなければたぶん大丈夫だと思います。それにしてもガタケット事務局、いつのまにかオンライン申込なんて始めてたのね……。

ちょうどこの秋に新潟の実家に置いてある車を取りに行こうかと少し考えていたので、数年ぶりの新潟ティア直接参加も検討したんですが、イマイチスケジュールが固まらなくて、けっきょく委託参加になりました。開催まで間もないのでおそらく新しい本を作って出すのは難しいと思いますが、先日のコミティア97での新刊『コミュニケーション・ノート』が出せるはずです。参加が確定したらまた詳細お知らせします。

2011/08/31 00:22:52

3月の地震について(パロディとしての東日本大震災)

これからする話は、1990年代に小中学生時代を過ごして、1995年1月17日当時は関西にいなくて、2011年3月11日当時は東北にいなかった人間のバイアスが強くかかった話だと思って読んだほうがいいのだけれど、今年3月の東日本大震災について、西野がまったく個人的な偏見をもとに考えていることには、例の一連の地震・津波・原発危機って、生活が破壊された被災地を除いて(以下同じ)、端的にパロディでしかなかったし、時代の転換点だ何だと言われている割には、少なくとも社会的には何ら現実のインパクトを与えていないんじゃないかということ。

というのは、あの一連の災害ってどうにも現実感がないというか、どうにもはじめて見た感じがしないというか、妙な既視感があるということ。もちろん、おそらく実際にはそんなことはなくって、現実に起こっている未曾有の大災害のはずなのだけれど、言うほどたいして驚きがあるわけじゃないし、どういうわけか「本物らしくない感じ」と「どこかで見た感じ」がひどい。

それで思ったことには、だいたい、今回の地震・津波・原発危機って、どういうイメージでもって理解されたかと言えば、端的に阪神大震災と奥尻島やスマトラの大津波とチェルノブイリの事故とを“貼り合わせた”イメージで理解されたんじゃないのかなって思っていて、気仙沼の火災は長田町の火災とそっくりで、津波の話と映像は奥尻島やスマトラのそれみたいで、原発が危ないなんて話はまるで昔聞いたチェルノブイリみたいだ、なんて感じ方は結構な人がしたんじゃないのかなって勝手に思ってるんだけれど、今回のことで重要なのはそれが文字通り「貼り合わせ」の形で受容された、つまり、それら個々の過去の出来事の歴史的文脈をまったく捨象してバラバラに断片化した(サブカルチャー化した)イメージを貼り合わせただけの形で受容されたんじゃないかということ。だから、過去に起こった出来事のイメージを参照しているから「どこかで見た感じ」はあるんだけれど、しかしそのイメージが具体的な歴史感覚からは切り離されてサブカルチャー化しているからテレビか映画みたいに「本物らしくない感じ」もするという。言ってしまえば、ぜんぶがぜんぶ既存のイメージからなるパロディの水準で処理されちゃったんじゃないのかなと思っていて(そういえば「3.11」なんて呼称も「9.11」のパロディだった)、そうでなければ、あのひどい既視感と、予想通り・期待通りに事態が進行していく様と、それに対する驚きのなさ・実感のなさというのはどうにも説明がつかない。

西野の実感以外に、あの災害がパロディの水準で処理されたっていうことの例としては、地震発生数日後に、電力不足に伴う自発的な節電キャンペーンとしてTwitter上で話題になった「ヤシマ作戦」がちょうどいい例だと思っている。「ヤシマ作戦」というのはアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に出てくる作戦名(作中では、敵を倒す武器に電力を供給するため、日本中を停電させて電気を集めるという作戦)からの連想・流用だけれど、この流用を聞いたとき、地震という現実がサブカルチャーを通じて「物語」に再編されているとか、サブカルチャー流用の背景には現実がアニメや映画のように推移することを期待する心情があるんじゃないかとか、Twitterが「未曾有の大災害による危機とその感動的克服」という物語への手軽な参加装置になりつつあり、地震が参加型エンターテインメントとして消費されている側面があるんじゃないかとか、そういうことをいろいろ考えたんだけれど、いずれにせよけっきょく、サブカルチャーのイメージがそのまま現実の代替物になってるということ。幸か不幸か、この国のサブカルチャーは架空の世界の中で危機や破滅を繰り返し描いてきたわけで、過去に実際に起きた出来事がなかったとしても、「ネタ元」や「素材」には事欠かない。だから「ヤシマ作戦」ひとつとってみても、地震それ自体がもはや現実の出来事としての水準では認知されていなくて、はじめから1つのサブカルチャー商品として、出来合いのイメージを文字通り「貼り合わせた」パロディの形で消費されたんじゃないかということ。そういう意味では「東日本大震災は起こらなかった」と言ってもいいのかもしれない。

そういうわけで「パロディとしての東日本大震災」って言ってきたけど、その対比として何を念頭に置いてしゃべっているかって言えば、阪神大震災を頭に置いているんだけれど、阪神大震災って明らかに社会的なインパクトがあったと思っていて、それはつまり「崩壊」をひじょうによく象徴する災害だったということ。80年代末から、昭和の終わり、社会主義圏の崩壊、湾岸戦争、バブルの崩壊、55年体制の終焉と、これまで半ば自明視されてきた価値観(場合によっては「戦後的」価値観と言ってもいいかもしれない)がどんどん崩れていく中で起きたのがあの阪神大震災だったわけで、その理解にはきちんとそうした現実社会の「崩壊」感覚とリンクした文脈が付与されていたと思っている。もちろん地震の発生自体は自然現象だからぐうぜんなんだけれど、しかしあの震災を何か既存の価値観が崩壊していく一連の歴史的出来事の象徴として多くの人は受け取っていたんじゃないのか(それは2ヶ月後のオウム事件で倍加されたわけだけれど)。そういう歴史的・政治的・社会的な感覚とリンクしていた阪神大震災のときと比べて、今回の東日本大震災はすごく無意味で脳天気に見えて、この震災を社会的な出来事として人と共有できるだけの適切な文脈が十分に作られない(原子力問題は十分に歴史的・政治的・社会的な重みを持った文脈のはずなんだけれど、単純な善悪の問題か、そうでなければ技術的な選択可能性の問題にされてしまっている)まま、心理的には海外ニュースやドラマやアニメと同じような距離感でもって地震がイメージされているように思う。だから残念だけど神戸の6700人と東北の2万人では圧倒的に前者のほうが社会的インパクトとしては重くて、後者はその点ただ死んだ人の合計でしかない。

そういうふうな今回の災害に対する感じ方は、やはり現実がどんどんサブカルチャー的イメージに代替されていった90年代と00年代の不毛な反映なんじゃないかって思っていて、それって現代日本の問題が期待通りに表れたということでしかないのだけれど、いずれにせよ、西野はそういう「パロディ」でしかない今回の災害(の流通イメージ)について、パロディの水準に留まったまま時代の転換点だなんて言うのはそれこそ阪神大震災後の言説のパロディでしかないし、そうやって出来ていく「転換点の模造品」は無意味に消費される商品でしかないよね、と思っている。そういう水準で流通するイメージに対しては、ことさら何かコミットしようという気は残念だけれどいまも起きていない。じゃあ何をするかって言えば、西野はたとえばホントに東北の被災地に出かけて現実の復興にコミットするみたいなアクティブな活動ができる人間じゃないし、当面はこのいかにもそれらしく出来上がった「パロディとしての東日本大震災」について、それをもっともらしい危機や転換点のように言うのだけはやめよう、とだけ思っている。ハッキリ言ってあの地震をきっかけに西野の生活が変わったなんてことはないし、あの地震の“イメージの”しょぼさ・現実への影響力のなさ・つまらなさというのはきちんとそれとして認識しておかないと、ムードに流されて、自分がやるべき仕事に歪みが出ちゃうと思う。

というのが3月以来の西野の考えなのだけれど、ハッキリ言ってこういう話がだれかにきちんと伝わるかどうかはぜんぜん自信がない。世代や場所が違うとあの災害の見方もぜんぜん違ってくるのかもしれないし、案外パロディとかじゃなくてもっと素で受け取ってる人もいるのかもしれない。そのへんはやっぱりよくわからないのだけれど、1つの見え方としてしゃべってみました。

2011/08/28 01:50:11

コミティア97にサークル参加しました

2011/08/21のコミティア97、無事終了しました。スペースにいらしてくださったみなさんありがとうございました。

今回、1年3ヶ月ぶりのサークル参加で、しかもいちど活動終了宣言したあとでの出戻り復帰だったので、どれだけの人がこのサークルを覚えているだろうかと若干不安でしたが、以前から読んでたという方がけっこう来てくださって、たいへんうれしかったです。

今回の新刊『コミュニケーション・ノート』については、制作スケジュールがギリギリになったことも影響してあとがきも書くことができず、まだ自分でも十分にその内容と意味を整理できていないのが実状ですが、周辺の知人のあいだでは、いままでの西野のマンガとは少し(かなり?)様子が違うというのが第一印象のようです。いまサッと読み返してみると、なるほどたしかに、紙面のつくりからしても、モノローグを排して窮屈なコマで鬱々と描いてた『Girls TALK』とは違って、タチキリ・間白・溜めゴマ・捨てゴマ・フキダシ・モノローグ・ぶち抜きなどなどをふつうに使った比較的オーソドックスなメソッドで描いてるし、内容面で言っても、西野のマンガでは10年ぶりに登場した要素や、はじめて出てきた要素などが盛り込まれて、1つのおはなしの中にいろいろと新しい側面が見え隠れしているという事実。詳しい総括は後日しなきゃと思っているけれど、とりあえずいまのところは、ここからいろんな方面に敷衍できそうな中継点的なマンガになったのかな、と思っています。もしかしたらこれから中継点で長いこと足踏みするのかもしれないけれど……。

なお、今後のイベント参加予定ですが、まったく量産が利くタイプではないので、当面は地方イベントとかに既刊で委託参加しながら新しいマンガを描こうかなと考えています。新しいマンガと言ったっていまはなんにもネタがないので、10月のコミティア98は直接参加しようかどうか迷ってますが、正式に決まったらまたお知らせします。というわけでようやく本格的に活動再開したサークルsucchaと西野ですが、今後ともよろしくおねがいします。

2011/08/24 01:26:01

コミティア97新刊告知

2011/08/21のコミティア97ですが、けさ新刊の原稿を印刷所に入稿しました。何か事故が起きなければコミティア当日には一応形としては新刊が出ていることになります。

新刊のタイトルは『コミュニケーション・ノート』です。以前に描いていて破綻した『Girls TALK』シリーズとはおはなし上のつながりはない、単発の恋愛マンガです。いま恋愛マンガって言ったけれど、これはあくまでも暫定的な区分で、じっさいその区分がどれだけ適切かは自分でもよく分かっていません。女の子2人が出てくるマンガなのでもしかしたら百合マンガって言ったほうがいいのかもしれないけれど、でもいまオタク文化の文脈で百合って言われてるものとはだいぶ遠いところにある気がする(むしろ意識的に中心から遠ざかってきた)し、ハッキリ言ってよく分からないというのが現在の正直な実感です。

そういうわけで描いた本人もすぐにはよく分からないくらい、内容的にはすごく混雑したマンガになっています。以前の西野のマンガからすれば明らかに異質な要素が複数入り込んでいるし、そういう意味ではまた「おはなしならざるもの」を混入させてしまったのかもしれない。おはなしとして見た場合の評価というのはちょっとまだ自分でもうまく判断ができないです。

ちなみにマンガ同人誌としての見た目に関して言えば、制作にあたってスケジュールの見通しを大きく誤ってギリギリの仕上げになってしまったので、もともと絵にあんまり関心を払うタイプではないとはいえ、見た目は端的に出来が悪いです。かろうじてマンガに見える水準。この点の見通しの甘さに関してだけは今回早くも猛反省で、次回はなんとかしたい。

ということで、コミティア当日のsucchaのスペースには、なんだかよく分からないマンガの形をしたものが置いてあるはずです。スペースはW25aです。直前の告知ですが、よろしければどうぞお立ち寄り下さい。

2011/08/19 23:35:43

デジカメを買いました

先日ヨドバシに行ったら外装がプラスチックのすごく安っぽいコンパクトデジカメがじっさい安く売ってて衝動買いしてしまった。PENTAX Optio RS1500です。

じつは1ヶ月くらい前にSONYのコンパクトデジカメ(DSC-TX1)売ったばっかりなんだけど、デジカメ自体は生活記録に使いたいからやっぱり1台手元に置いておきたいなぁと思っていたところで、iPhoneで代用できないかとも考えたけれどズーム無いしピント合わせがイマイチだし、いわゆるトイデジカメも考えたけれど気楽に使えるとはいえ画質的にクセがありすぎるしで、ふつうの写りでいいから気楽に持ち運べて使えるものないかなぁと探していたところに、このOptio RS1500を見つけて買ってしまったのでした。

西野は学生のころはわりとよく生活記録のために写真ぱしゃぱしゃ撮っていたのだけれど、ここ2年くらいは旅行以外ではほとんど写真を撮らなくなっていて、というのはいざ何か撮ろうにもSONY製で外装も金属製でいかにも精密機器ですみたいな風貌のデジカメだとけっこう扱いに気を遣っちゃってなかなか気軽に使えなかったというのが大きいのだけれど、今回買ったOptio RS1500はホント冗談みたいにプラスチック感がひどい(褒めてます)ので、そうとう雑に扱えているという事実。カメラ本体の液晶がTNパネルで視野角狭すぎなのを除けば、写りも素直だし存外マクロにも強いので、ひさびさに生活写真が楽しいです。昔のものも含めてお気に入りの写真は適宜Flickrに上げているので、よろしければご覧下さい。

2011/08/07 04:51:28

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